私が俳句に幻滅した瞬間(とき)

ほとんどの日本人が俳句を身近に感じ、親しみを持っていると思う。私も、小・中学生の頃は有名な句を思い浮かべては色々と想像を巡らせていた。「古池や蛙飛び込む水の音」の古池は杉の大木の木漏れ日が揺らめく深山の古寺の池だろうか、あるいは水面すれすれに雑木林の枝々が伸びている里山の溜め池なのだろうか、などなどだ。

ところが、この「古池」は或る俳人たちの仲間の自宅の庭の池だと言うことを知って裏切られたような感じを受けた。そのような世俗的なものと詩的なものと区別が付けられない文学で有ることに失望した。

実は、もう一つ幻滅の原因が刷り込まれていた。中学の国語の教科書に或る俳人が書いた随想が掲載されていた。「降る雪の白きを留めぬ日本橋」と言う句が俳句か川柳のどちらであるか論じた文だ。あれこれ理由を述べた挙句、結論が得られず、「この句は私の感覚からすれば川柳である」と結論づけて有った。この俳人は五,七,五の文字数で、季語を含む、俳句の形式を満たしていると言う条件だけで判断し、季語の果たすべき機能を考えていない。歳時記に載っている言葉でも季語として機能しない場合もあると言うことだ。
私は、「季語は明暗を読者にイメージさせる機能を持つ語」だと考えている。
柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」と言う句は「柿」と「鐘」と「法隆寺」の三語が読者に鮮烈な明るさと色のイメージを伝えている。奈良の秋は晴天が多い、鐘は日の入りで、法隆寺は東向きだから門前の茶屋に腰かけ、入り日と向かい合っている情景を想像できる。
これに対して「降る雪の・・・・・」の句の雪は日の出から日の入りまで雑踏に踏みしだかれているので明暗をイメージさせていない。つまり、この句の「雪」は季語の機能を示していないので論理的に「川柳」なのだ。
歳時記に載った語を機械的に使いまわしても独りよがりの句に成る恐れが有ると言うことだ。

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